『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第3章 拡張の道は広く - 変革の時代へ #2 (第130話)
公開日 2012/10/11
平成元(1989)年から2期に分けて工事にかかり、第1期として中央棟(普通教室等)・東棟・北棟、第2期に中央棟(事務室・職員室等管理関係)・体育館等を竣工。教育棟の一部9階には直径6メートルの天体観測ドームもつくるなど、校舎のランドスケープは一新された。
平成3(1991)年7月に新体育館のアリーナで校内竣工式、10月には竣工記念パーティを行って、学内外にその“新装”をアピールしたのだった。それは望外の光栄を招いたりもした。平成4(1992)年3月に岡崎市都市景観環境賞を受賞することになり、その優れた建築デザインが認められた。2年前に大学豊田キャンパスが豊田市都市景観賞を受賞したのに続く栄誉だった。
施設整備が行われた岡崎城西高等学校はまた、この頃には多年宿願としてきた「勉学とクラブの両立」が確立されつつあった。大学進学の実績を上げ、進学校としての社会的評価を次第に高めてきていた。
特に昭和62(1987)年度の大学入試では、518名という創立以来の大量の合格者を記録した。名古屋大学などの国公立大学に69名、早稲田大学、関西大学など有名私立大学に449名。うちこの年度に新設された系列校の愛知学泉大学の経営学部へも83名が合格した。これまで進学先は他大学に限られていたが、ここに系列校としての実をあげることになった。
この躍進の要因は、関係者の熱意にほかならなかった。
「大学進学なら城西へ」
陣頭指揮をとる学校長以下、入試委員が積極的な募集活動を行って進学を志す生徒を集めることに努めた。こうした優れた資質の生徒の受け入れ体制として、大学進学のためのコース別教育課程を組み、教員たちが骨身を惜しまぬ熱心な指導を行った。それが実効をもたらしたのだった。
この500余名という数字は、生徒急増期の中にあってこその快挙ではあったが、その後も、質・量ともに大量の大学合格者を出していくことになった。
平成3(1991)年7月に新体育館のアリーナで校内竣工式、10月には竣工記念パーティを行って、学内外にその“新装”をアピールしたのだった。それは望外の光栄を招いたりもした。平成4(1992)年3月に岡崎市都市景観環境賞を受賞することになり、その優れた建築デザインが認められた。2年前に大学豊田キャンパスが豊田市都市景観賞を受賞したのに続く栄誉だった。
施設整備が行われた岡崎城西高等学校はまた、この頃には多年宿願としてきた「勉学とクラブの両立」が確立されつつあった。大学進学の実績を上げ、進学校としての社会的評価を次第に高めてきていた。
特に昭和62(1987)年度の大学入試では、518名という創立以来の大量の合格者を記録した。名古屋大学などの国公立大学に69名、早稲田大学、関西大学など有名私立大学に449名。うちこの年度に新設された系列校の愛知学泉大学の経営学部へも83名が合格した。これまで進学先は他大学に限られていたが、ここに系列校としての実をあげることになった。
この躍進の要因は、関係者の熱意にほかならなかった。
「大学進学なら城西へ」
陣頭指揮をとる学校長以下、入試委員が積極的な募集活動を行って進学を志す生徒を集めることに努めた。こうした優れた資質の生徒の受け入れ体制として、大学進学のためのコース別教育課程を組み、教員たちが骨身を惜しまぬ熱心な指導を行った。それが実効をもたらしたのだった。
この500余名という数字は、生徒急増期の中にあってこその快挙ではあったが、その後も、質・量ともに大量の大学合格者を出していくことになった。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略