『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第3章 拡張の道は広く - 後継者の覚悟 #5 (第121話)
公開日 2012/09/29
清毅が新学長になってその1ヵ月後、昭和43(1968)年4月、大学の名称が変更された。
「愛知女子大学」を「安城学園大学」と改称したのだった。これに伴い、愛知女子大学附属幼稚園も安城学園大学附属幼稚園と名称変更された。
改称の背景には、県内に類似名称の短期大学があり、まぎらわしく独自性が薄れるということがあった。
しかしまた、“女子”という呼称を外したことは、「将来男子学生の受け入れも予想される」という、明日の学園運営に対する深謀遠慮が含まれてもいたのだった。
大学の名前も新たに、清新な気持ちで踏み出した学園は、計画を次々と実施に移していった。
安城学園大学で、昭和44(1969)年3月に食品加工室、講義室、研究室を含む3階建ての新校舎が落成したのを一段落として、安城で短期大学学舎と高校校舎、また岡崎で短期大学学舎、大学学舎が姿を現していった。いずれも鉄筋建であることはいうまでもなく、そのデラックスな外観は、学園のイメージアップをもたらすに十分だった。
こうして大学、短期大学の基盤が充実した暁(あかつき)に、計画は第2次へと進行する。
昭和47(1972)年11月には、学園は60周年を迎え、さまざまな記念行事が行われた。この年はまた、第2次5ヵ年計画が始動した年でもあった。
第2次計画は第1次計画の路線を継承して、施設面、カリキュラム面で更に進展を図った。
第1の柱は、安城学園女子短期大学附属高等学校および岡崎城西高等学校の社会的地位を高めること、第2の柱は大学、短期大学の整備充実であった。
第2の柱は第1次に続くもので、安城学園大学の校地の拡充、学舎(現在の南棟)の建設などとあいまって、長年懸案となっていた安城学園女子短期大学を安城から岡崎へ移転するほか、安城学園大学短期大学部の定員増に備えた移転もして、岡崎校地を大学、短期大学の集結地とする体制(現体制)を整えるものだった。
「愛知女子大学」を「安城学園大学」と改称したのだった。これに伴い、愛知女子大学附属幼稚園も安城学園大学附属幼稚園と名称変更された。
改称の背景には、県内に類似名称の短期大学があり、まぎらわしく独自性が薄れるということがあった。
しかしまた、“女子”という呼称を外したことは、「将来男子学生の受け入れも予想される」という、明日の学園運営に対する深謀遠慮が含まれてもいたのだった。
大学の名前も新たに、清新な気持ちで踏み出した学園は、計画を次々と実施に移していった。
安城学園大学で、昭和44(1969)年3月に食品加工室、講義室、研究室を含む3階建ての新校舎が落成したのを一段落として、安城で短期大学学舎と高校校舎、また岡崎で短期大学学舎、大学学舎が姿を現していった。いずれも鉄筋建であることはいうまでもなく、そのデラックスな外観は、学園のイメージアップをもたらすに十分だった。
こうして大学、短期大学の基盤が充実した暁(あかつき)に、計画は第2次へと進行する。
昭和47(1972)年11月には、学園は60周年を迎え、さまざまな記念行事が行われた。この年はまた、第2次5ヵ年計画が始動した年でもあった。
第2次計画は第1次計画の路線を継承して、施設面、カリキュラム面で更に進展を図った。
第1の柱は、安城学園女子短期大学附属高等学校および岡崎城西高等学校の社会的地位を高めること、第2の柱は大学、短期大学の整備充実であった。
第2の柱は第1次に続くもので、安城学園大学の校地の拡充、学舎(現在の南棟)の建設などとあいまって、長年懸案となっていた安城学園女子短期大学を安城から岡崎へ移転するほか、安城学園大学短期大学部の定員増に備えた移転もして、岡崎校地を大学、短期大学の集結地とする体制(現体制)を整えるものだった。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略