『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第3章 拡張の道は広く - 拡充の昭和三十年代 #7 (第111話)
公開日 2012/09/15
永年の女子教育から得た経験が男子を対象にして果たしてどの程度通用するのか―。
男子教育は未知の領域だった。
それよりも、女子一貫教育の完成のためには、まだ色々な事業を推し進めねばならない時期にあった。
だいは、逡巡せざるを得なかった。
だが、結局、思い至るのは「地域のために」だった。地元教育界の強い要望に応えることが、学園が西三河地域で受け入れられる道であり、社会への奉仕につながるものでもあると判断した。それは昭和36(1961)年夏のこと。直ちに翌年度の開校を目指して、男子高校創設の準備にとりかかった。
設立場所は、岡崎市の市長はじめ当局、関係者などの協力もあって、西三河地方の中心地である岡崎市が選ばれた。
だが、学園では本館の増築工事を始めたばかりで、資金面で余裕がなく、校舎建設工事にすぐとりかかることができない。このため、とりあえず安城学園女子短期大学附属高校の岡崎城西分校として発足することにし、校舎は岡崎市明大寺町茶園にあった元愛知県繭検定所を、新校舎完成までのあいだ、仮校舎として借りることにした。
こうして昭和37(1962)年4月11日、202名の新入生を迎えて第1回の入学式を挙行し、西三河唯一の普通科私立男子高校として発足した。
懸案の新校舎は、翌昭和38(1963)年4月に、岡崎城の西北、矢作川沿いの中園町と舳越町にまたがる用地に総工費9000万円余をかけ、延面積2900平方メートルの鉄筋4階建の建物が建てられた。
その土地面積はおよそ6万7000平方メートルに及ぶ広大なものだった。県立の高校などは大体1万坪(約3万3000平方メートル)前後の敷地だったが、その2倍にも当たるものだった。これほどの土地を入手したのも、将来に備えてのことだった。安城の小堤校地はすでに手狭さが感じられ、周辺への拡張も困難になっている経験知から、岡崎の新天地では明日への配慮がなされたのだった。
男子教育は未知の領域だった。
それよりも、女子一貫教育の完成のためには、まだ色々な事業を推し進めねばならない時期にあった。
だいは、逡巡せざるを得なかった。
だが、結局、思い至るのは「地域のために」だった。地元教育界の強い要望に応えることが、学園が西三河地域で受け入れられる道であり、社会への奉仕につながるものでもあると判断した。それは昭和36(1961)年夏のこと。直ちに翌年度の開校を目指して、男子高校創設の準備にとりかかった。
設立場所は、岡崎市の市長はじめ当局、関係者などの協力もあって、西三河地方の中心地である岡崎市が選ばれた。
だが、学園では本館の増築工事を始めたばかりで、資金面で余裕がなく、校舎建設工事にすぐとりかかることができない。このため、とりあえず安城学園女子短期大学附属高校の岡崎城西分校として発足することにし、校舎は岡崎市明大寺町茶園にあった元愛知県繭検定所を、新校舎完成までのあいだ、仮校舎として借りることにした。
こうして昭和37(1962)年4月11日、202名の新入生を迎えて第1回の入学式を挙行し、西三河唯一の普通科私立男子高校として発足した。
懸案の新校舎は、翌昭和38(1963)年4月に、岡崎城の西北、矢作川沿いの中園町と舳越町にまたがる用地に総工費9000万円余をかけ、延面積2900平方メートルの鉄筋4階建の建物が建てられた。
その土地面積はおよそ6万7000平方メートルに及ぶ広大なものだった。県立の高校などは大体1万坪(約3万3000平方メートル)前後の敷地だったが、その2倍にも当たるものだった。これほどの土地を入手したのも、将来に備えてのことだった。安城の小堤校地はすでに手狭さが感じられ、周辺への拡張も困難になっている経験知から、岡崎の新天地では明日への配慮がなされたのだった。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略