『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第3章 拡張の道は広く - 拡充の昭和三十年代 #6 (第110話)
公開日 2012/09/14
クラブ活動では、短期大学も奮起する。
昭和32(1957)年に創部したバスケットボール部が昭和35(1960)年、4年目にして早くも全日本学生選手権で初優勝する。さらに同部は、以後6年間にわたって連続優勝、“公式戦207連勝”という輝かしい記緑を樹立するのである。
こうして学校スポーツにあって、“安城学園”の名を全国に広く高めていく中、学園にとって、昭和37(1962)年は、創立50周年を迎えるとともに画期的な布石をする大きなエポックの年となった。
短期大学において、家政科を開設した。既設の生活科・被服科に加えて3学科とした。
同時に、岡崎において男子校を開校したのだった。「安城学園女子短期大学附属高等学校岡崎城西分校」―その校名はこのように長いものだった。
「明治45(1912)年、『安城裁縫女学校』を開設して50年になる。これを記念して、岡崎に分校を…」というのが学園での位置付けだった。それにしても、女子教育に徹して三河地方随一の女子総合学園として世に広く認められてきた安城学園がなぜ男子を対象に学校を開設したのだろうか。
それには、端的にベビーブームの影響があった。
当時、西三河地域には、男子のための高校は公立の高校以外になかった。そのため、地域の高校進学生の多くはやむなく名古屋、豊橋などの高校へ通学することを余儀なくされ、その現実が、
「この地域に男子高校の新設を…」
という要望の声を強くさせていた。それが、男子の中学卒業生の進学率が増加をたどる傾向に加え、ベビーブームの波が昭和36(1961)年頃から高校に押し寄せ始めると、その声はいよいよ高まった。
あげくは、西三河地域の教育界から安城学園に男子高校新設の白羽の矢が立てられた。
地元から伝統と実績に深い理解と信頼を寄せられての要望はありがたかったが、学園では正直当惑した。
昭和32(1957)年に創部したバスケットボール部が昭和35(1960)年、4年目にして早くも全日本学生選手権で初優勝する。さらに同部は、以後6年間にわたって連続優勝、“公式戦207連勝”という輝かしい記緑を樹立するのである。
* * * * *
こうして学校スポーツにあって、“安城学園”の名を全国に広く高めていく中、学園にとって、昭和37(1962)年は、創立50周年を迎えるとともに画期的な布石をする大きなエポックの年となった。
短期大学において、家政科を開設した。既設の生活科・被服科に加えて3学科とした。
同時に、岡崎において男子校を開校したのだった。「安城学園女子短期大学附属高等学校岡崎城西分校」―その校名はこのように長いものだった。
「明治45(1912)年、『安城裁縫女学校』を開設して50年になる。これを記念して、岡崎に分校を…」というのが学園での位置付けだった。それにしても、女子教育に徹して三河地方随一の女子総合学園として世に広く認められてきた安城学園がなぜ男子を対象に学校を開設したのだろうか。
それには、端的にベビーブームの影響があった。
当時、西三河地域には、男子のための高校は公立の高校以外になかった。そのため、地域の高校進学生の多くはやむなく名古屋、豊橋などの高校へ通学することを余儀なくされ、その現実が、
「この地域に男子高校の新設を…」
という要望の声を強くさせていた。それが、男子の中学卒業生の進学率が増加をたどる傾向に加え、ベビーブームの波が昭和36(1961)年頃から高校に押し寄せ始めると、その声はいよいよ高まった。
あげくは、西三河地域の教育界から安城学園に男子高校新設の白羽の矢が立てられた。
地元から伝統と実績に深い理解と信頼を寄せられての要望はありがたかったが、学園では正直当惑した。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略