『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第3章 拡張の道は広く - 拡充の昭和三十年代 #5 (第109話)
公開日 2012/09/13
約8ヵ月の建設工事が終了し、昭和36(1961)年4月21日、竣工式典が行われた。竣工の記念行事は盛大だった。
ローマ・オリンピックで金メダルを獲得した体操の小野喬(たかし)選手らの公開演技、日本体育大学と学園との交換バスケットボール試合。翌日には、生徒会記念行事として校内球技大会が催された。
総工費1億1000万円をかけ、3300平方メートルの延面積をもつ体育館は“デラックスな体育館”の一言で言い尽くされた。
1階には小体育館、クラブ室、ロッカールーム、シャワールーム、保健室などの諸施設。2階にはバスケットボールコート3面分のスペースのメインフロア。そして3階にはフロアを囲むように観覧席も設けられた。
これが当時としては東海地方の体育施設として、1、2位を競う存在となった。
そうした中、優れた施設に恵まれたクラブ活動も活発化していった。
「安城学園生として誇りを…」
教育内容の充実に努めるなか、もっとも留意されたことはこの意識であり、その高まりが課外活動として現れていった。
昭和32(1957)年にはクラブ数は20を超えた。その盛んなクラブ活動の中から、真っ先に“安城学園”の名を大きく高めるクラブが現れた。ソフトボール・クラブである。
昭和25(1950)年に創部されたソフトボール・クラブは顧問教師(鈴木三重次・小川毅)の熱心な指導で、昭和30(1955)年には国民体育大会、全日本高校ソフトボール選手権大会への出場権を得、その後9回(昭和34年は伊勢湾台風により出場不能)連続出場した。その間、昭和33(1958)年に国民体育大会優勝の栄冠を得たのをはじめ準優勝2回、そして常時ベスト8に残るといった優秀な成績を挙げて、中部日本における強力チームとして全国的に名を馳せるのだった。
ローマ・オリンピックで金メダルを獲得した体操の小野喬(たかし)選手らの公開演技、日本体育大学と学園との交換バスケットボール試合。翌日には、生徒会記念行事として校内球技大会が催された。
総工費1億1000万円をかけ、3300平方メートルの延面積をもつ体育館は“デラックスな体育館”の一言で言い尽くされた。
1階には小体育館、クラブ室、ロッカールーム、シャワールーム、保健室などの諸施設。2階にはバスケットボールコート3面分のスペースのメインフロア。そして3階にはフロアを囲むように観覧席も設けられた。
これが当時としては東海地方の体育施設として、1、2位を競う存在となった。
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そうした中、優れた施設に恵まれたクラブ活動も活発化していった。
「安城学園生として誇りを…」
教育内容の充実に努めるなか、もっとも留意されたことはこの意識であり、その高まりが課外活動として現れていった。
昭和32(1957)年にはクラブ数は20を超えた。その盛んなクラブ活動の中から、真っ先に“安城学園”の名を大きく高めるクラブが現れた。ソフトボール・クラブである。
昭和25(1950)年に創部されたソフトボール・クラブは顧問教師(鈴木三重次・小川毅)の熱心な指導で、昭和30(1955)年には国民体育大会、全日本高校ソフトボール選手権大会への出場権を得、その後9回(昭和34年は伊勢湾台風により出場不能)連続出場した。その間、昭和33(1958)年に国民体育大会優勝の栄冠を得たのをはじめ準優勝2回、そして常時ベスト8に残るといった優秀な成績を挙げて、中部日本における強力チームとして全国的に名を馳せるのだった。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略