学校法人安城学園
『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第3章 拡張の道は広く - 拡充の昭和三十年代 #3 (第107話)
公開日 2012/09/11
完成した本館・屋上での新館竣工祝賀会。本館・屋上からは周辺が一望された 中学校再開と同時に、高校にも手を打った。この先の生徒数の増大を予測して、普通科、家庭科の2通常課程だった学科を普通科、生活科、商業科、家庭科(別科)とし、西三河地方で唯14学科を擁する総合高校にした。
 また、この頃から高校への進学率の高まりが全国的に目立つようになり、それがやがて大学への進学率にも伝播した。安城学園においても、高校から上位校である短期大学へ進む生徒数が増えてきた。そこで、中学校、高校、短期大学という女子一貫教育を名実ともに明確にするため、翌33(1958)年には高校の校名を「安城学園女子短期大学附属高等学校」と変更した。
 ベビーブームを背景に、各学校の施設建築もラッシュとなった。1950年代から70年代にかけて、教育関係の新聞記事は学校建築に関するものが多数に上ることが指摘されているが、とりわけ1950年代は、校舎・体育飴・講堂・プールなどの新増築が各校でめざましかった。
 その中、安城学園でも、

・本館(昭和31年11月)
・短期大学生活科ビル(昭和32年5月)
・新館(昭和33年6月)
・体育館(昭和36年4月)

 と、次々と施設が建てられていった。だが、安城学園のそれらは何れも、期せずしてその時その時に熱く注目され、話題を呼ぶものだった。
 本館は鉄筋3階建であった。学園最初の鉄筋建物であっただけでなく、「安城市初の鉄筋ビル」のレッテルが張られるものだった。屋上は体育の授業にも使用されたが、屋上から周りを眺めた景色は起伏に乏しい広野が一面に。このような建物は他に見られず、当時の安城において唯一の近代的な建物であることが実感された。
 安城学園は戦前もそうであったが、戦後においても、安城初、いや全国初といった出来事をいくつも重ねていく。

「学校は文化の中心にならねばならない」

 かつて昭和22(1947)年、講堂建設のときも、当時の清毅理事長のこうした信念で、終戦直後の物資欠乏の中、本格的な建築にかかり、人々の耳目を集めた。そしてまた昭和24(1949)年には幼稚園を再開するなど、安城の戦後教育に先鞭(せんべん)を切ったのだった。
(つづく)
※ 文中敬称略
 
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