『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第3章 拡張の道は広く - 拡充の昭和三十年代 #2 (第106話)
公開日 2012/09/10
時勢はその後、「神武景気」、「岩戸景気」の好況を受けながら、経済高度成長期に入り、昭和30年代半ば頃から社会経済のあらゆる面で急速な変化がもたらされていく。その中、教育界においても、戦後のベビーブームという人口現象が大きな影響を及ぼすことになった。
だいは、もともとこうした教育情勢・教育環境の変化に常に敏感な洞察をおこなって、その時々に対応することに長(た)けていたが、昭和30年代に起こった激動にも次々と対応し布石していった。
手始めに昭和32(1957)年4月、短期大学附属中学校を発足させた。正しくは“再開”だった。
女子中学校は昭和22(1947)年、新学制実施に伴って開校したが、中学校が義務教育であり各市町村で一斉に設置されたことから、授業料を払う私立の中学校は敬遠されがちで、生徒の募集に難渋した。昭和26(1951)年4月には、生徒定員150名に対して在籍生徒数は42名。特に1、2年は7、8名と激減した。このため、ついに昭和27(1952)年4月、生徒募集を中止し、閉校の措置を取っていた。それを再開したのだった。
その対応は、やがて迫る“ベビーブーム”による生徒増に備えるものだった。
昭和30年代、教育界は生徒数の激しい増減に振り回されることになった。
戦争終結の直後、極端に出生数が増える人口現象“ベビーブーム”が起き、昭和22(1947)年から昭和24(1949)年の3年間の出生数はそれぞれ250万人を超え、合計すると約800万人程度が誕生した。このため、小学校児童数の増加は昭和29(1954)年頃から始まり、昭和33(1958)年頃にピークに。その波は、中学校には昭和35(1960)年頃、高校には昭和38(1963)年頃から波及してきた。
こうしたすう勢が予測される中、学園では、一時閉校していた女子中学校の門戸を再び開いたのだった。
だいは、もともとこうした教育情勢・教育環境の変化に常に敏感な洞察をおこなって、その時々に対応することに長(た)けていたが、昭和30年代に起こった激動にも次々と対応し布石していった。
手始めに昭和32(1957)年4月、短期大学附属中学校を発足させた。正しくは“再開”だった。
女子中学校は昭和22(1947)年、新学制実施に伴って開校したが、中学校が義務教育であり各市町村で一斉に設置されたことから、授業料を払う私立の中学校は敬遠されがちで、生徒の募集に難渋した。昭和26(1951)年4月には、生徒定員150名に対して在籍生徒数は42名。特に1、2年は7、8名と激減した。このため、ついに昭和27(1952)年4月、生徒募集を中止し、閉校の措置を取っていた。それを再開したのだった。
その対応は、やがて迫る“ベビーブーム”による生徒増に備えるものだった。
昭和30年代、教育界は生徒数の激しい増減に振り回されることになった。
戦争終結の直後、極端に出生数が増える人口現象“ベビーブーム”が起き、昭和22(1947)年から昭和24(1949)年の3年間の出生数はそれぞれ250万人を超え、合計すると約800万人程度が誕生した。このため、小学校児童数の増加は昭和29(1954)年頃から始まり、昭和33(1958)年頃にピークに。その波は、中学校には昭和35(1960)年頃、高校には昭和38(1963)年頃から波及してきた。
こうしたすう勢が予測される中、学園では、一時閉校していた女子中学校の門戸を再び開いたのだった。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略