『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第3章 拡張の道は広く - 新たな息吹 #4 (第103話)
公開日 2012/09/06
昭和22(1947)年4月、新学制による小学校(国民学校初等科を改称)および中学校がまず発足した。「安城学園女子中学校」も開校した。愛知県下の私立中学校は33校。そのうちの1校として、安城町では唯一の存在だった。
翌23(1948)年には、安城女子職業学校に代わり「安城学園女子高等学校」が発足した。
全日制で通常課程に普通科、家庭科、別科に家庭科(2年)をおく総合制高等学校だった。しかし、だいにはこの新制度には心残りがあった。従来職業学校として卒業生には小学教員の資格が下付されていた。その特典が失われることになったからだった。また、これまで広範な地域から集まっていた生徒も、新たに学区制となったことからそれぞれの地域の高校に転出してゆくケースが多く、生徒数は減少して、経営が圧迫されることになった。
更に安城学園にとっての問題は新制大学だった。
文部省は、履修年数がばらばらだった戦前の大学、師範学校、専門学校を4年制の「新制大学」に再編し、学校体系の民主化、一元化を目指した。
だが、その設置基準のハードルは高かった。教員、土地、建物、図書など基準に示す諸条件を満たせなければ認可は得られない。定められた条件を満たすにはその壁はあまりにも厚かった。
だいは、今置かれている学園の現状から見て、学園の実態が基準に及ばないことを知り、大学の設置申請を諦めざるを得なかった。
そうした時、またまた不運が見舞う。昭和24(1949)年3月、清毅も蒙古政府に勤務中参事官であったという理由でだいと同じく公職追放となって、理事長・高等学校長の職を辞任した。
―1校で2人も追放されるとは…。
肝腎な時にまた学園の“支柱”を失うことになり、だいの嘆きは大きかった。
だいはやがて追放解除となり、校長に復帰するが、清毅が学園に復帰するのはそれから17年後、だいが他界した昭和41(1966)年9月のことであった。学園の事態急変に対処するため急遽仕事を整理して、法人本部本部長として経営に当たることになるのである。
翌23(1948)年には、安城女子職業学校に代わり「安城学園女子高等学校」が発足した。
全日制で通常課程に普通科、家庭科、別科に家庭科(2年)をおく総合制高等学校だった。しかし、だいにはこの新制度には心残りがあった。従来職業学校として卒業生には小学教員の資格が下付されていた。その特典が失われることになったからだった。また、これまで広範な地域から集まっていた生徒も、新たに学区制となったことからそれぞれの地域の高校に転出してゆくケースが多く、生徒数は減少して、経営が圧迫されることになった。
更に安城学園にとっての問題は新制大学だった。
文部省は、履修年数がばらばらだった戦前の大学、師範学校、専門学校を4年制の「新制大学」に再編し、学校体系の民主化、一元化を目指した。
だが、その設置基準のハードルは高かった。教員、土地、建物、図書など基準に示す諸条件を満たせなければ認可は得られない。定められた条件を満たすにはその壁はあまりにも厚かった。
だいは、今置かれている学園の現状から見て、学園の実態が基準に及ばないことを知り、大学の設置申請を諦めざるを得なかった。
そうした時、またまた不運が見舞う。昭和24(1949)年3月、清毅も蒙古政府に勤務中参事官であったという理由でだいと同じく公職追放となって、理事長・高等学校長の職を辞任した。
―1校で2人も追放されるとは…。
肝腎な時にまた学園の“支柱”を失うことになり、だいの嘆きは大きかった。
だいはやがて追放解除となり、校長に復帰するが、清毅が学園に復帰するのはそれから17年後、だいが他界した昭和41(1966)年9月のことであった。学園の事態急変に対処するため急遽仕事を整理して、法人本部本部長として経営に当たることになるのである。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略