学校法人安城学園
『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第3章 拡張の道は広く - 新たな息吹 #2 (第101話)
公開日 2012/09/04
理事長就任時の寺部清毅寺部芳子
 これまで内蒙古(現内モンゴル)で県参事官をしていた次男の清毅(せいき)が家族ともども無事帰国した。教育界や学校経営が混迷の中にあるとき、三蔵、だいには心強い帰国だった。
 清毅と妻芳子は翌昭和21(1946)年2月から理事兼女子専門学校教授として学校経営に携わることになった。芳子は文部省の督学官だった成田順の愛弟子で、東京女子高等師範学校を卒業後、一宮高等女学校に、そして寺部家に嫁してからは安城女子専門学校でも教鞭(きょうべん)を取った、嘱望される教員でもあった。
 だが、順風の一方、逆風が逆巻く。
 後継者を得た直後、三蔵が急逝したのだ。校主であり堅実な会計の元締めを喪うことになった。そのため清毅が理事長と専門学校長を継ぐことになった。
 だが…という接続詞は、不幸にもまだ続く。更なる“打撃”が見舞った。新学制が始まろうという矢先の昭和22(1947)年3月、だいが公職追放の身になったのだった。
 この年1月4日、巷には衝撃的なニュースが流れた。前年発令された「改正公職追放令」により、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会などの関係者がその職場を追われた。また公職の範囲が広げられ、地方議員・市町村長・マスコミ関係者・有力企業や軍需産業の幹部などにまで対象とされ、これにより全国で21万余人に及ぶ者が公職を追放されることになった。
 そうした波は教育界にも押し寄せた。教職員の適格審査―。全国約40万の教育関係者すべてがこれまでの教育活動について適否の審査を受け、戦争遂行を鼓吹(こすい)した者など不適格な教育を行った者は教壇に立つことができなくなった。
 それは昭和21(1946)年5月、文部省の指令により各都道府県に教職員審査委員会が設置されて始まっていた。
 その結果、だいが不適格者と判定された。理由は意外なものだった。
(つづく)
※ 文中敬称略
 
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