学校法人安城学園
『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 新たな礎石を固め #5 (第99話)
公開日 2012/09/01
学徒動員生として繊維工場で働く 夕陽が地平線に吸い込まれていくように見られる広々とした三河平野、その中にある学校周辺の田園風景は相変わらずだった。だが、その落日を見送る人びとの思い・感情は、時を経るうちに微妙に変わっていった。国民をめぐる時代環境が大きくひずんでいったからであった。
 昭和6(1931)年の満州事変勃発は、軍部の台頭、軍国主義の鼓吹(こすい)を招くことになった。そして昭和12(1937)年7月7日、日中戦争が勃発すると、それまでの準戦時体制が戦時体制に…。軍事色が一段と強まるとともに戦時経済統制も始まった。昭和13(1938)年には国家総動員法の発令、昭和14(1939)年には興亜奉公日の制定と、「銃後」思想も高揚され、「ぜいたくは敵だ」といった、窮乏に耐えることを求める標語などもしきりに喧伝(けんでん)された。
 こうした挙国体制は、昭和16(1941)年12月、太平洋戦争への突入によっていよいよ強まり、日本の教育にも限りない崩壊をもたらした。
 戦局が熾烈(しれつ)になるとともに、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、学徒動員が始まった。昭和18(1943)年6月には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定。翌19(1944)年3月には「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」により、学徒全員の工場配置が閣議決定された。
 これにより、安城女子専門学校の学生、安城女子職業学校の生徒もまた、学徒勤労動員によって大同製鋼・大日本兵器・中央発條などの各工場へ勤めることになった。
 ペンや縫い針をハンマーやヤスリに持ち替えて働く、そうした学生・生徒たちの姿を、だいは複雑な思いで眺めるしかなかった。

―これまでひたすら追い求めてきた教育の成果も今は無為…。

 ただ、すべきことは、日に日に窮乏を極めてきた日常の衣食住の生活において“廃物利用”の理念をいかに世に浸透させていくかであった。
 安城学園の戦前の輝ける教育も今は発揮することもかなわず、日々は戦雲いよいよ険しく暮れていった。
(つづく)
※ 文中敬称略
 
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