『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 新たな礎石を固め #4 (第98話)
公開日 2012/08/31
「とにかく日本中探しても、この学校ほど裁縫の技術のよく出来る学校は他にはないと思いました。卒業生はみな裁縫が上手でした」
周辺の高等女学校の先生を歴任して、昭和7(1932)年に安城女子職業学校に赴任した教員(松平すゞ)も客観的にこう回顧する。
専門学校在学中に、岡崎で催された早縫い競技会に出場して他を圧して優勝した学生もいた。職業学校の自他共に認める裁縫技術の優秀さは、専門学校生にも厳とした伝統として受け継がれた。
教育内容も先進的だった。
「おそらくその頃の女学校では、まだ洋裁はほとんどやられていなかったと思いますが、私たちは本格的に洋裁を習いました」
県外、全国から多く馳せ参ずるだけに、学生・生徒たちははっきりした目的意識を持って、こうした教科に取り組んでいた。
そうしたなか、安城学園の“洋裁教育”はさらに進化を見せる。
昭和11(1936)年、専門学校に修業年限1ヵ年の家政科を設けるとともに、職業学校の実習部に洋裁科を設置して洋裁授業を本格化させた。
これは、経営的にも安定していた附属幼稚園が町立保育園設置の影響で閉鎖のやむなきに至ったため、その財政補完という意味もあったが、時代のニーズを敏感に取り入れた措置でもあった。
この頃は、女子生徒の服装も時代の推移とともに和服から洋服へ。職業学校でも昭和7(1932)年の入学生から、それまでの2部式(上下に分かれたきもの)の上着に袴(はかま)着用という和服式からセーラー服にひだスカートを制服として定めていた。
そんな時代の流れの中、洋裁を学ぼうと志す者も多く、そうした希望者のために、翌昭和12(1937)年には安城町内(現安城市御幸本町)に「東海女子洋裁学院」を設置した。
これは、安城地方における最初の本格的な洋裁教育機関であり、この地方に洋裁を普及させた草分けとして記録されるものであった。
こうして安城での戦前の教育において先進的に多くのエポックを刻んだ学園だったが、やがて戦雲の暗影が大きくかざし、昔年の特色も発揮できない雌伏(しふく)の時に入っていくことになった。
周辺の高等女学校の先生を歴任して、昭和7(1932)年に安城女子職業学校に赴任した教員(松平すゞ)も客観的にこう回顧する。
専門学校在学中に、岡崎で催された早縫い競技会に出場して他を圧して優勝した学生もいた。職業学校の自他共に認める裁縫技術の優秀さは、専門学校生にも厳とした伝統として受け継がれた。
教育内容も先進的だった。
「おそらくその頃の女学校では、まだ洋裁はほとんどやられていなかったと思いますが、私たちは本格的に洋裁を習いました」
県外、全国から多く馳せ参ずるだけに、学生・生徒たちははっきりした目的意識を持って、こうした教科に取り組んでいた。
そうしたなか、安城学園の“洋裁教育”はさらに進化を見せる。
昭和11(1936)年、専門学校に修業年限1ヵ年の家政科を設けるとともに、職業学校の実習部に洋裁科を設置して洋裁授業を本格化させた。
これは、経営的にも安定していた附属幼稚園が町立保育園設置の影響で閉鎖のやむなきに至ったため、その財政補完という意味もあったが、時代のニーズを敏感に取り入れた措置でもあった。
この頃は、女子生徒の服装も時代の推移とともに和服から洋服へ。職業学校でも昭和7(1932)年の入学生から、それまでの2部式(上下に分かれたきもの)の上着に袴(はかま)着用という和服式からセーラー服にひだスカートを制服として定めていた。
そんな時代の流れの中、洋裁を学ぼうと志す者も多く、そうした希望者のために、翌昭和12(1937)年には安城町内(現安城市御幸本町)に「東海女子洋裁学院」を設置した。
これは、安城地方における最初の本格的な洋裁教育機関であり、この地方に洋裁を普及させた草分けとして記録されるものであった。
こうして安城での戦前の教育において先進的に多くのエポックを刻んだ学園だったが、やがて戦雲の暗影が大きくかざし、昔年の特色も発揮できない雌伏(しふく)の時に入っていくことになった。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略