『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 苦難の女専設立 #2 (第87話)
公開日 2012/08/18
「…安城町の女子職業学校は、全国的の私立学校である。寺部氏は、女子専門学校にせんとして、僕に助力を求めて来られた。僕は同氏の献身的努力を知っており、学校の成績も認めているが、未だ学校を見たことはない。しかし寺部氏の誠意と努力とは分っているので、僕は微力を輸(ゆ)すことを約した。安城に誇り得るものの一つは女子職業学校であるが、やがて県下に必要である専門学校になるのは、誠に結構であると僕は感謝せざるを得なかった。」
山崎は、同校の寺部三蔵理事長が修養団に傾倒し、機関誌『清明心』の財政的な窮乏を援けるため定期購読を生徒に奨めるなど、財政的にも支援の手を伸べていることを、愛弟子の稲垣稔を通じて知っていた。
そんなよしみも感じて、山崎はだいの意向を真摯に受け入れ、力を貸すことを快諾したのだった。
山崎はさっそく動く。町長の岡田菊次郎に会って、安城に女子専門学校を設置することに町も後押しするよう促して、町の積極的な賛助の意を確かめると、そのことをだいに知らせて、背中を押したのであった。
山崎の協力を得ただいは、専門学校設置の申請準備を進める中、翌昭和2(1927)年4月、修業年限3年の「専門部」(家政科)を発足させた。これを基礎として、将来、専門学校に昇格させるための準備に取りかかったのである。
専門学校を設立するにあたっては、校地・校舎施設の整備、充実した教員スタッフ構成などが求められたが、まず財団法人を組織するために現金預金5万円が基金として必要だった。
しかし、昭和2年には寄宿舎の整備、3年3月には、第3期工事として4教室分の平家建て校舎の新築など、“尺取虫”のように少しずつ施設の補充を続け、まさに“連年にわたる工事続き”とあって、手許には5万円どころか1万円の余裕もない。理事長の言う通り、財政上から考えても専門学校設置は無理な相談だった。
しかし、財政の余力を待って手をこまねいていては時機を失する。だいは、あらゆる手を尽くして金策に駆けずり回った。
山崎は、同校の寺部三蔵理事長が修養団に傾倒し、機関誌『清明心』の財政的な窮乏を援けるため定期購読を生徒に奨めるなど、財政的にも支援の手を伸べていることを、愛弟子の稲垣稔を通じて知っていた。
そんなよしみも感じて、山崎はだいの意向を真摯に受け入れ、力を貸すことを快諾したのだった。
山崎はさっそく動く。町長の岡田菊次郎に会って、安城に女子専門学校を設置することに町も後押しするよう促して、町の積極的な賛助の意を確かめると、そのことをだいに知らせて、背中を押したのであった。
山崎の協力を得ただいは、専門学校設置の申請準備を進める中、翌昭和2(1927)年4月、修業年限3年の「専門部」(家政科)を発足させた。これを基礎として、将来、専門学校に昇格させるための準備に取りかかったのである。
専門学校を設立するにあたっては、校地・校舎施設の整備、充実した教員スタッフ構成などが求められたが、まず財団法人を組織するために現金預金5万円が基金として必要だった。
しかし、昭和2年には寄宿舎の整備、3年3月には、第3期工事として4教室分の平家建て校舎の新築など、“尺取虫”のように少しずつ施設の補充を続け、まさに“連年にわたる工事続き”とあって、手許には5万円どころか1万円の余裕もない。理事長の言う通り、財政上から考えても専門学校設置は無理な相談だった。
しかし、財政の余力を待って手をこまねいていては時機を失する。だいは、あらゆる手を尽くして金策に駆けずり回った。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略