『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 次なる飛躍 #4 (第83話)
公開日 2012/08/09
小堤の新天地では、安城女子職業学校の校舎・施設と同時に、もう一つ、安城では珍しい施設が発足した。
大正15(1926)年4月、附設幼稚園が開設されたのだ。
大正末期には農村不況が深刻さを加え、安城農林学校や安城高等女学校の公立校でさえ入学志願者が定員に満たないような状況に追い込まれていた。生徒確保の不安は安城女子職業学校ではなおさらだったが、その不安の中、幼稚園附設によって学校の財政を補完するのがねらいだった。
この時新たに定められた幼稚園令、幼稚園令施行規則によっていち早く開園したのは、だいの先見性によるものでもあった。
幼児のうち満3歳から学齢に達する以前のものを対象として、遊戯、唱歌、観察、談話、手芸等をもって保育する―この幼児教育は、安城でも画期的なものとして迎えられ、話題を呼んだ。
しかし、その歴史は長くは続かなかった。10年を経てようやく幼稚園としてその地歩を確立した昭和11(1936)年、にわかに経営が成り立たなくなる事態に見舞われた。安城町が「安城保育園」を開設して、安城女子職業学校の附設幼稚園の入園児を吸収してしまったのだった。
「またまた安城町のなせる施政の“犠牲”となってしまったなあ」
その嘆きは大きかった。
振り返れば、職業学校としてその経営がようやく軌道に乗り出した時、安城町の各小学校に実業補習学校が設置されたことで打撃を受け、次いでは、中等程度実業学校へ組織変更して前進の足がかりを固めると、女子の中等教育機関として町立の安城高等女学校を開設されるなど、安城町の教育行政は、いつも安城女子職業学校の後追いのかたちで、“町立”であることを強みに生徒を吸収して、民間校を窮地に陥れた。そうしたケースが3度起こったのだ。しかも、園児のほとんどを町内に頼る幼稚園の場合のダメージは決定的で、附設幼稚園は閉鎖のやむなきにいたった。
―安城唯一の幼児教育の場としての役割を果した。だが、安城町の幼児教育の分野において先鞭(せんべん)をつけたのだ。
安城女子職業学校は、その矜恃(きょうじ)を誇りに、その後を過ごすことになった。だが、その教育への灯は戦後再び燃え上がるのである…。
大正15(1926)年4月、附設幼稚園が開設されたのだ。
大正末期には農村不況が深刻さを加え、安城農林学校や安城高等女学校の公立校でさえ入学志願者が定員に満たないような状況に追い込まれていた。生徒確保の不安は安城女子職業学校ではなおさらだったが、その不安の中、幼稚園附設によって学校の財政を補完するのがねらいだった。
この時新たに定められた幼稚園令、幼稚園令施行規則によっていち早く開園したのは、だいの先見性によるものでもあった。
幼児のうち満3歳から学齢に達する以前のものを対象として、遊戯、唱歌、観察、談話、手芸等をもって保育する―この幼児教育は、安城でも画期的なものとして迎えられ、話題を呼んだ。
しかし、その歴史は長くは続かなかった。10年を経てようやく幼稚園としてその地歩を確立した昭和11(1936)年、にわかに経営が成り立たなくなる事態に見舞われた。安城町が「安城保育園」を開設して、安城女子職業学校の附設幼稚園の入園児を吸収してしまったのだった。
「またまた安城町のなせる施政の“犠牲”となってしまったなあ」
その嘆きは大きかった。
振り返れば、職業学校としてその経営がようやく軌道に乗り出した時、安城町の各小学校に実業補習学校が設置されたことで打撃を受け、次いでは、中等程度実業学校へ組織変更して前進の足がかりを固めると、女子の中等教育機関として町立の安城高等女学校を開設されるなど、安城町の教育行政は、いつも安城女子職業学校の後追いのかたちで、“町立”であることを強みに生徒を吸収して、民間校を窮地に陥れた。そうしたケースが3度起こったのだ。しかも、園児のほとんどを町内に頼る幼稚園の場合のダメージは決定的で、附設幼稚園は閉鎖のやむなきにいたった。
―安城唯一の幼児教育の場としての役割を果した。だが、安城町の幼児教育の分野において先鞭(せんべん)をつけたのだ。
安城女子職業学校は、その矜恃(きょうじ)を誇りに、その後を過ごすことになった。だが、その教育への灯は戦後再び燃え上がるのである…。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略