『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 次なる飛躍 #3 (第82話)
公開日 2012/08/08
豊橋に執着するだいに、三蔵は言う。
「豊橋へ移るといっても、資金はどう捻出するんだ」
学校の会計を担う三蔵の指摘は説得力があった。豊橋は何分安城からは遠隔の地であって、その移転に多額の費用を要するのが難点だった。
結局、三蔵の慎重論と資金の不十分なこと、また、安城町の有力者のあっ旋ということも考慮して、だいも我意を抑え、小堤に移転することにしたのだった。
豊橋進出―というだいの希望は、結局、実現を見なかった。だが、だいの豊橋進出の夢は消えなかった。
「30数年来抱き続けていた豊橋への希望は、まだ捨ててはいません。適当な敷地さえあれば、現在私の夢に描いている、各種の学部を併せた大学と短大を中心とする、完備した女子総合学園を建設して、国の文化に寄与したいと念願しております」
だいは後年、昭和37(1962)年、回顧の記録『おもいでぐさ』を記したが、その中で、はっきりその意志を表している。
歴史に“イフ”の仮説が許されるなら、想像の世界は大きく広がる。この時、豊橋への進出が実現していたなら、今ある学園は「安城学園」ではなく、あるいは「豊橋学園」であったかも知れない。そんな想像に駆らせるのも、歴史の歯車の狂いがなせるいたずらであろうか。
ともあれ、安城女子職業学校は安城にとどまることになった。
建設工事は急がれた。斡旋(あっせん)の労をとった安城町長や町会議員など来賓12名と、職員、生徒代表の参列のもと、新校舎建設の地鎮祭が行われたのは、大正14(1925)年10月1日のこと。収穫の終わった直後で作地にはまだ稲株が残ったままの上での建設の槌(つち)入れだった。新築・移築の工事は突貫的に進められ、翌15年3月には、新校舎で大正14年度の卒業式を挙行。さらに9月までに教室、寄宿舎ともに整備が進み、移転はほぼ完了した。
「豊橋へ移るといっても、資金はどう捻出するんだ」
学校の会計を担う三蔵の指摘は説得力があった。豊橋は何分安城からは遠隔の地であって、その移転に多額の費用を要するのが難点だった。
結局、三蔵の慎重論と資金の不十分なこと、また、安城町の有力者のあっ旋ということも考慮して、だいも我意を抑え、小堤に移転することにしたのだった。
豊橋進出―というだいの希望は、結局、実現を見なかった。だが、だいの豊橋進出の夢は消えなかった。
「30数年来抱き続けていた豊橋への希望は、まだ捨ててはいません。適当な敷地さえあれば、現在私の夢に描いている、各種の学部を併せた大学と短大を中心とする、完備した女子総合学園を建設して、国の文化に寄与したいと念願しております」
だいは後年、昭和37(1962)年、回顧の記録『おもいでぐさ』を記したが、その中で、はっきりその意志を表している。
歴史に“イフ”の仮説が許されるなら、想像の世界は大きく広がる。この時、豊橋への進出が実現していたなら、今ある学園は「安城学園」ではなく、あるいは「豊橋学園」であったかも知れない。そんな想像に駆らせるのも、歴史の歯車の狂いがなせるいたずらであろうか。
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ともあれ、安城女子職業学校は安城にとどまることになった。
建設工事は急がれた。斡旋(あっせん)の労をとった安城町長や町会議員など来賓12名と、職員、生徒代表の参列のもと、新校舎建設の地鎮祭が行われたのは、大正14(1925)年10月1日のこと。収穫の終わった直後で作地にはまだ稲株が残ったままの上での建設の槌(つち)入れだった。新築・移築の工事は突貫的に進められ、翌15年3月には、新校舎で大正14年度の卒業式を挙行。さらに9月までに教室、寄宿舎ともに整備が進み、移転はほぼ完了した。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略