『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 教育方針の確立 #1 (第76話)
公開日 2012/08/01
大正14(1925)年4月。その時はある意味、安城女子職業学校にとって大きな転機となった。
寄宿生は大正13(1924)年ごろには、主に県内からの50名ぐらいであった。それが、県外からの大量入寮生を迎えて100数十名となり、寄宿舎も新たに必要となった。
これまでは、校内の第1寄宿舎で約50名が収容可能だったが、加えて2階建校舎の2教室を開放し、また安城町内に点在する借家(寮)、教員の榊原宅でも寄宿舎として応急に収容した。
そしてやがて、校地脇に約90坪(約297平方メートル)の小学校の古校舎が移築されたのを借用した。まずはまとまった理想的な寄宿舎として利用された。
舎生たちは、ここで共同の生活を始めた。食事も自炊で、夏冬を問わず、朝は4時から炊事にかかり、夕は7時まで跡片付けと翌日の用意を交替でした。
「その働きぶりは実に立派なもので、よそでは見られぬ立派さでした。朝夕の掃除などには、一同うしろ鉢巻のかいがいしさ。床などはいつもピカピカに光っていました」
だいは、舎生たちの自律した生活ぶりに目を細めたのだが、こうした精神修養と礼儀作法を第一として生活を送ることを推進するのも、夫・三蔵の力にあることを認めるのだった。
「これはまったく理事長が軍人生活の根本義をそのまま取り入れ、自ら先頭に立って生徒訓育に当たった賜物でした」
舎監は校主の三蔵が担任した。
三蔵は、大正13(1924)年2月、財団法人安城女子職業学校の認可を受けたことにより理事長にもなって、会計などにも携わっていた。舎監はその一任務としていた。
三蔵は海軍仕込みの徹底した指導を行った。何事も最後までやり通す実践力を重んじ、生活時間の合理化、質素倹約を旨とした。清潔さも強調した。風紀問題についても厳しく、とくに服装の乱れや言葉使いはこまかく注意したのだった。
寄宿生は大正13(1924)年ごろには、主に県内からの50名ぐらいであった。それが、県外からの大量入寮生を迎えて100数十名となり、寄宿舎も新たに必要となった。
これまでは、校内の第1寄宿舎で約50名が収容可能だったが、加えて2階建校舎の2教室を開放し、また安城町内に点在する借家(寮)、教員の榊原宅でも寄宿舎として応急に収容した。
そしてやがて、校地脇に約90坪(約297平方メートル)の小学校の古校舎が移築されたのを借用した。まずはまとまった理想的な寄宿舎として利用された。
舎生たちは、ここで共同の生活を始めた。食事も自炊で、夏冬を問わず、朝は4時から炊事にかかり、夕は7時まで跡片付けと翌日の用意を交替でした。
「その働きぶりは実に立派なもので、よそでは見られぬ立派さでした。朝夕の掃除などには、一同うしろ鉢巻のかいがいしさ。床などはいつもピカピカに光っていました」
だいは、舎生たちの自律した生活ぶりに目を細めたのだが、こうした精神修養と礼儀作法を第一として生活を送ることを推進するのも、夫・三蔵の力にあることを認めるのだった。
「これはまったく理事長が軍人生活の根本義をそのまま取り入れ、自ら先頭に立って生徒訓育に当たった賜物でした」
舎監は校主の三蔵が担任した。
三蔵は、大正13(1924)年2月、財団法人安城女子職業学校の認可を受けたことにより理事長にもなって、会計などにも携わっていた。舎監はその一任務としていた。
三蔵は海軍仕込みの徹底した指導を行った。何事も最後までやり通す実践力を重んじ、生活時間の合理化、質素倹約を旨とした。清潔さも強調した。風紀問題についても厳しく、とくに服装の乱れや言葉使いはこまかく注意したのだった。
(つづく)
※ 文中敬称略
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