『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 学校資格を高め #9 (第74話)
公開日 2012/07/30
『主婦之友』での掲載が口火となって、他の婦人雑誌も相次いで同様に特集で取り上げた。おかげで、だい、安城女子職業学校は、思いもかけない“時の人”“時の学校”になってしまった。
その注目の影響は、たちまち翌年の志願者殺到となって現れた。大正15(1925)年4月には、マスコミの報道でその存在を知った多くの入学希望者が集まったのである。それまでのクチコミがマスコミに代わったといってもよかった。
その激増ぶりを卒業記録でみると、大正13年度(14年3月)に82名だった卒業生数が14年度(15年3月)には142名と倍増近くになっている。
しかも、およそ4割(38.7%)は県外の出身者であり、その範囲も全国各地に、北は北海道から南は熊本県まで22道府県に及んでいた。安城女子職業学校はマスコミの紹介によって、全国各地から応募があり、まさに“全国区”の有名校になったのだった。
『主婦之友』に載った記事に感動し、自立の道を求めた彼女らは、その多くが裁縫師範科及びこの年新設の高等師範科(1部、2部)への入学を希望した。
だいは、これまでの尋常小学校・高等小学校卒業者を入学資格とした本科、専修科、裁縫師範科に加えて、グレードの高い修業年限1年の「高等師範科」(1部・2部)をこの年から新たに設けていた。
「1部」は高等女学校卒業を入学資格として尋常小学校本科正教員資格を取得するもので、「2部」はその他の女学校卒業を入学資格として裁縫科専科正教員資格を取得するものである。
この新しい学科を創ったのには、だいの持ち前の敏感な時代推察が働いていた。第一次世界大戦の戦後の反動不況から景気が悪化、経済の低成長が続いて、農村各地では小作争議も多発した。こうした農村不況にとくに女子の中等学校進学にかげりが見られはじめたこと、そしてまた、近在の安城高等女学校でこの年初めて卒業生を出すことから、そうした“受け皿”として、新しい学科コースを考えたのであった。
その注目の影響は、たちまち翌年の志願者殺到となって現れた。大正15(1925)年4月には、マスコミの報道でその存在を知った多くの入学希望者が集まったのである。それまでのクチコミがマスコミに代わったといってもよかった。
その激増ぶりを卒業記録でみると、大正13年度(14年3月)に82名だった卒業生数が14年度(15年3月)には142名と倍増近くになっている。
しかも、およそ4割(38.7%)は県外の出身者であり、その範囲も全国各地に、北は北海道から南は熊本県まで22道府県に及んでいた。安城女子職業学校はマスコミの紹介によって、全国各地から応募があり、まさに“全国区”の有名校になったのだった。
『主婦之友』に載った記事に感動し、自立の道を求めた彼女らは、その多くが裁縫師範科及びこの年新設の高等師範科(1部、2部)への入学を希望した。
だいは、これまでの尋常小学校・高等小学校卒業者を入学資格とした本科、専修科、裁縫師範科に加えて、グレードの高い修業年限1年の「高等師範科」(1部・2部)をこの年から新たに設けていた。
「1部」は高等女学校卒業を入学資格として尋常小学校本科正教員資格を取得するもので、「2部」はその他の女学校卒業を入学資格として裁縫科専科正教員資格を取得するものである。
この新しい学科を創ったのには、だいの持ち前の敏感な時代推察が働いていた。第一次世界大戦の戦後の反動不況から景気が悪化、経済の低成長が続いて、農村各地では小作争議も多発した。こうした農村不況にとくに女子の中等学校進学にかげりが見られはじめたこと、そしてまた、近在の安城高等女学校でこの年初めて卒業生を出すことから、そうした“受け皿”として、新しい学科コースを考えたのであった。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略