『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 学校資格を高め #5 (第70話)
公開日 2012/07/25
世には捨てる神もあれば、拾う神もある。
安城女子職業学校が町内からの入学応募が激減する一方で、安城女子職業学校が自校教育を代表するアイテムとした「師範科」が脚光を浴び、入学生が急増してきたのだった。しかも、それは安城町、碧海郡の域を越えた広い地域からの応募が目立っていた。
その人気は“クチコミ”によることが大きかった。キーマンは卒業生だった。
卒業生たちは、徹底した指導により優れた裁縫技術を身につけて巣立った。検定試験に合格し、裁縫科教員として各地の小学校に赴任した卒業生も多くあった。その卒業生たちの活躍と実績が一般に広く認められてきていた。そして、そうした卒業生たちが自分の受けた母校の教育の素晴らしさ、充実ぶりを言い広め、自分の教え子たちに「安城女子職業学校」への入学を薦(すす)めた。この“クチコミ”が入学者増をもたらしていった重要な要因であった。
甲種中等程度実業学校に昇格すると共に、教員養成を中心とする安城女子職業学校の教育は、こうしてしだいに社会的に認められ、学校経営も軌道に乗ってきた。
その確固とした評価は、やがて同じような危機が新たに再発した時にも、その影響が最小限に食い止められることになったのである。大正10(1921)年4月のことだ。安城町が今度は町立の高等女学校(現愛知県立安城高等学校)を設立した。これで再び安城女子職業学校の安寧(あんねい)が脅(おびや)かされることになった。
「教養ある婦人、働く婦人、健康な婦人を目標に、農村婦人の育成を目的とする」というのが、同校の教育目標。甲種中等程度実業学校の安城女子職業学校とは教育目的が異なるものだった。しかし、一般の町民にはそうした違いは理解されにくく、この設立によって、安城町内から安城女子職業学校への入学生はさらに激減した。“官尊民卑”の風潮も反映していた。
だが、安城女子職業学校はもう動ずることはなかった。
安城女子職業学校が町内からの入学応募が激減する一方で、安城女子職業学校が自校教育を代表するアイテムとした「師範科」が脚光を浴び、入学生が急増してきたのだった。しかも、それは安城町、碧海郡の域を越えた広い地域からの応募が目立っていた。
その人気は“クチコミ”によることが大きかった。キーマンは卒業生だった。
卒業生たちは、徹底した指導により優れた裁縫技術を身につけて巣立った。検定試験に合格し、裁縫科教員として各地の小学校に赴任した卒業生も多くあった。その卒業生たちの活躍と実績が一般に広く認められてきていた。そして、そうした卒業生たちが自分の受けた母校の教育の素晴らしさ、充実ぶりを言い広め、自分の教え子たちに「安城女子職業学校」への入学を薦(すす)めた。この“クチコミ”が入学者増をもたらしていった重要な要因であった。
甲種中等程度実業学校に昇格すると共に、教員養成を中心とする安城女子職業学校の教育は、こうしてしだいに社会的に認められ、学校経営も軌道に乗ってきた。
その確固とした評価は、やがて同じような危機が新たに再発した時にも、その影響が最小限に食い止められることになったのである。大正10(1921)年4月のことだ。安城町が今度は町立の高等女学校(現愛知県立安城高等学校)を設立した。これで再び安城女子職業学校の安寧(あんねい)が脅(おびや)かされることになった。
「教養ある婦人、働く婦人、健康な婦人を目標に、農村婦人の育成を目的とする」というのが、同校の教育目標。甲種中等程度実業学校の安城女子職業学校とは教育目的が異なるものだった。しかし、一般の町民にはそうした違いは理解されにくく、この設立によって、安城町内から安城女子職業学校への入学生はさらに激減した。“官尊民卑”の風潮も反映していた。
だが、安城女子職業学校はもう動ずることはなかった。
(つづく)
※ 文中敬称略
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