『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 学校資格を高め #4 (第69話)
公開日 2012/07/24
当時は尋常小学校6年の義務教育を終えると、進学希望者は、その上は高等小学校、中学校、高等女学校、実業学校等に分かれて進学した。
ほぼ現在の中学校・高等学校にあたる戦前の中等教育機関は、女子の場合は、高等女学校令による高等女学校、高等女学校令改正による実科高等女学校、実業学校令による実業学校、実業学校令改正による実業補習学校、そして小学校令による「其ノ他小学校ニ類スル各種学校」と分かれていた。
裁縫女学校は高等女学校や師範学校と比べれば、制度上の限定が小さい各種学校にあたった。この種の学校の設立は、府県知事の認可を要するものの、認可条件で求められるものは教員の資格が主で施設・設備等に関しては比較的緩和であり、学科課程等も小学校令に定める小学校の補習科に類似して規制が少ない。それゆえだいもまた、裁縫塾の延長として裁縫女学校を創るにあたって、教員、施設規模から小学校令に基づく「各種学校」としてスタートしたのだった。
だが、危機に追い込まれた今、学校の資格を上げ、教育内容のグレードアップを図って生き抜くことが必要だった。
だいは、小学校令による各種学校から実業学校令による実業学校への昇格―それも「甲種中等程度実業学校」への昇格を目指すことにした。
それは、危機をチャンスとしてさらに高きを目指す前向きな姿勢であり、起死回生を図った発想の転換だった。
“起死回生”のためとあれば、ただちに手を打つ必要があった。
11月5日、その認可申請書を提出した。
ただし、認可を得るには設置基準を充足させなければならない。学校資格を高めるには、それだけ内実も高める必要があった。
さっそく土地100坪(330平方メートル)を購入して校地を拡張、年内のうちにあわただしく第4校舎(一部2階建て、40坪(130平方メートル))、校舎・講堂(2階建て、48坪(160平方メートル))を増築して、甲種実業学校にふさわしい施設充実を図った。
認可があったのは、翌大正8(1919)年2月21日。かくして4月1日を期して甲種中等程度実業学校として再発足したのだった。
ほぼ現在の中学校・高等学校にあたる戦前の中等教育機関は、女子の場合は、高等女学校令による高等女学校、高等女学校令改正による実科高等女学校、実業学校令による実業学校、実業学校令改正による実業補習学校、そして小学校令による「其ノ他小学校ニ類スル各種学校」と分かれていた。
裁縫女学校は高等女学校や師範学校と比べれば、制度上の限定が小さい各種学校にあたった。この種の学校の設立は、府県知事の認可を要するものの、認可条件で求められるものは教員の資格が主で施設・設備等に関しては比較的緩和であり、学科課程等も小学校令に定める小学校の補習科に類似して規制が少ない。それゆえだいもまた、裁縫塾の延長として裁縫女学校を創るにあたって、教員、施設規模から小学校令に基づく「各種学校」としてスタートしたのだった。
だが、危機に追い込まれた今、学校の資格を上げ、教育内容のグレードアップを図って生き抜くことが必要だった。
だいは、小学校令による各種学校から実業学校令による実業学校への昇格―それも「甲種中等程度実業学校」への昇格を目指すことにした。
それは、危機をチャンスとしてさらに高きを目指す前向きな姿勢であり、起死回生を図った発想の転換だった。
“起死回生”のためとあれば、ただちに手を打つ必要があった。
11月5日、その認可申請書を提出した。
ただし、認可を得るには設置基準を充足させなければならない。学校資格を高めるには、それだけ内実も高める必要があった。
さっそく土地100坪(330平方メートル)を購入して校地を拡張、年内のうちにあわただしく第4校舎(一部2階建て、40坪(130平方メートル))、校舎・講堂(2階建て、48坪(160平方メートル))を増築して、甲種実業学校にふさわしい施設充実を図った。
認可があったのは、翌大正8(1919)年2月21日。かくして4月1日を期して甲種中等程度実業学校として再発足したのだった。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略