『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 創めの地ここに #10 (第64話)
公開日 2012/07/18
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こうなると、これ以上住宅を教室に使用する事は不可能である。
―何としても教室がほしい。
開校まもなく校舎増築の必要に迫られ、30坪分300円の資金を調達することになった。そして、だいは、これまでの蓄えに足りない200円を頼母子講に頼った。
その経緯から深夜を徹して証印を求めることにもなったのだった…。
こうして、校舎の増築は進み、その年10月には、木の香もかんばしい校舎(第2校舎)が竣工した。24坪(約80平方メートル)1教室のわずかな増築だが、だいは前途に夢を抱きながら、生徒の指導と学校経営に取り組んでいった。
* * * * *
「おっ、“エプロン学校”の生徒がおしゃれな格好で通っていくぞ」
安城駅の近くには何軒かの店や家があったが、その町並みをはずれると周辺は一面の水田と畑で、ところどころに松が枝を張っている。そんな田園風景の中を通学する女生徒…和服に白いエプロン(前掛け)をかけ、裁縫箱に弁当を入れた風呂敷包みを持って通学する安城裁縫女学校生だった。
学校は午前9時ごろに始まり、午後3時ごろに終わった。その登下校時のことだ。生徒たちは安城町内の者が6割を占め、その他も碧海郡内からの者が大半で、いずれも徒歩通い、互いに誘い合い連れ立って通(かよ)った。そのエプロン掛けの装いから、安城裁縫女学校はいつしか“エプロン学校”とも呼ばれるようになっていた。安城で唯一の裁縫女学校出現は、人々にも関心を呼んだ。
「あのエプロンも自作だろうが、裁縫のウデはなかなか確からしいな」
したり顔にそんなふうに見立てる人もあった。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略