『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 創めの地ここに #9 (第63話)
公開日 2012/07/17
「50銭の月謝をもらって50名からの生徒を集めるのは、この安城町では見込みが立たず、きわめて困難だ」
地域性をおもんばかって、学校の運営を危ぶむ声が多かった。
しかし、一旦思い立っただいは、もうあとに引くことはなかった。
「学則では一律50銭としておいて、実際には色々考えてもみましょう」
事態への順応も考えながら、早急に設置の手続きをとり、県から裁縫女学校設立の認可書を受け取った。日付は明治45(1912)年2月8日付。翌々日にそれを受け取っただいは、さっそく4月開校の準備にかかった。
裁縫女学校はすでに近く岡崎にあったが、蒲郡にもこの春、町立の裁縫女学校(現愛知県立蒲郡高等学校)ができるといった情報も耳に入っていた。事を急がねばならなかった。
校名は地名を冠して「安城裁縫女学校」とした。学科は本科(2年制)、専修科(1年制)、研究科の3科で、入学資格は高等小学校の卒業者。
月謝は50銭(当時の多くの卒業生の記憶によると、実際の授業料は月35銭であったようである)としたが、焦点の新入生は、これまでの裁縫塾の塾生の大部分と新たに入学した者でおよそ30名だった。
認可を受けて2ヵ月足らずの間のあわただしい手配とあって、何もかもが応急、最小規模の体勢にあった。
本科は家事、裁縫、礼法、国語、修身、茶花道の6科目、専修科は裁縫と礼法と修身、研究科は裁縫1科目だけと定めたが、学科については町内の小学校校長や寺院の住職等に願い、技芸関係は校長のだいがすべて一人で担当した。
校舎も、桜井村から移転した2階建ての住宅がそのまま使われ、住宅と同居、教室は8畳と6畳の板敷の部屋2間のしきりを取り払ってつくった。2階の1間が遠方からの入学者数人のための寄宿にあてられた。
だが、生徒約30名でも、2間の仕切りを取り払って作った教室は、いかにしても狭すぎた。
地域性をおもんばかって、学校の運営を危ぶむ声が多かった。
しかし、一旦思い立っただいは、もうあとに引くことはなかった。
「学則では一律50銭としておいて、実際には色々考えてもみましょう」
事態への順応も考えながら、早急に設置の手続きをとり、県から裁縫女学校設立の認可書を受け取った。日付は明治45(1912)年2月8日付。翌々日にそれを受け取っただいは、さっそく4月開校の準備にかかった。
裁縫女学校はすでに近く岡崎にあったが、蒲郡にもこの春、町立の裁縫女学校(現愛知県立蒲郡高等学校)ができるといった情報も耳に入っていた。事を急がねばならなかった。
校名は地名を冠して「安城裁縫女学校」とした。学科は本科(2年制)、専修科(1年制)、研究科の3科で、入学資格は高等小学校の卒業者。
月謝は50銭(当時の多くの卒業生の記憶によると、実際の授業料は月35銭であったようである)としたが、焦点の新入生は、これまでの裁縫塾の塾生の大部分と新たに入学した者でおよそ30名だった。
認可を受けて2ヵ月足らずの間のあわただしい手配とあって、何もかもが応急、最小規模の体勢にあった。
本科は家事、裁縫、礼法、国語、修身、茶花道の6科目、専修科は裁縫と礼法と修身、研究科は裁縫1科目だけと定めたが、学科については町内の小学校校長や寺院の住職等に願い、技芸関係は校長のだいがすべて一人で担当した。
校舎も、桜井村から移転した2階建ての住宅がそのまま使われ、住宅と同居、教室は8畳と6畳の板敷の部屋2間のしきりを取り払ってつくった。2階の1間が遠方からの入学者数人のための寄宿にあてられた。
だが、生徒約30名でも、2間の仕切りを取り払って作った教室は、いかにしても狭すぎた。
(つづく)
※ 文中敬称略
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