『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 創めの地ここに #7 (第61話)
公開日 2012/07/13
“裁縫塾”ではなく、正規の教育令によった“裁縫学校”を…。
だいが、なぜ裁縫女学校を創ろうと思ったのか。
そこには、明治後期の女子教育において、私立裁縫女学校の存在が大きくクローズアップされてきていたことがあった。
「男は手習い、女は裁縫」…裁縫は多くの女性に必須なたしなみとしてとらえられ、江戸時代から家で、あるいは裁縫塾や寺子屋でその技能が伝えられていた。
明治に入り新しい学制が布かれて近代教育が始まったが、「女子には普通教育は必要ない」といった偏見が持たれ、男子に比べて女子の就学率は低かった。しかし、そうした中でも、女子教育における裁縫の重要さは変わることなく、裁縫教育は脈々と続けられた。それが、明治33(1900)年に小学令が改正されたことで様相が変わった。就学が督促・強化されたことや、女子に対する教育観が変わってきたこと、そしてまた、日清戦争後に産業化が起こってきたことなど、さまざまな要因によって、女子の就学は急速に増え、明治30(1897)年で50.8%だったその就学率は36(1903)年には90%に達する急激な上昇を見せた。
このように女子教育が広まるにつれ、女子向けの中等教育の必要性も出てきた。高等女学校をはじめ実業学校、実業補習学校、師範学校、各種学校など、多様な女子の中等教育機関が全国に設立されるようになり、各種学校の裁縫女学校も私立を主に多く輩出することになった。
裁縫女学校は、明治10年代から東京では渡辺辰五郎が設立した東京裁縫女学校や共立女子職業女学校などが草分け的な存在となって全国に広がり、明治30(1897)年ごろには115校、裁縫を教育内容の中心とした技芸や家政の学校をあわせると150校ほどがあった。この女子各種学校は、明治30年代に約2.3倍という急激な伸びを見せ、明治40(1907)年ごろには校名に「裁縫」や「技芸」「実用」等の名を付けた学校は全国で370校ほどに上った。
だいが、なぜ裁縫女学校を創ろうと思ったのか。
そこには、明治後期の女子教育において、私立裁縫女学校の存在が大きくクローズアップされてきていたことがあった。
* * * * *
「男は手習い、女は裁縫」…裁縫は多くの女性に必須なたしなみとしてとらえられ、江戸時代から家で、あるいは裁縫塾や寺子屋でその技能が伝えられていた。
明治に入り新しい学制が布かれて近代教育が始まったが、「女子には普通教育は必要ない」といった偏見が持たれ、男子に比べて女子の就学率は低かった。しかし、そうした中でも、女子教育における裁縫の重要さは変わることなく、裁縫教育は脈々と続けられた。それが、明治33(1900)年に小学令が改正されたことで様相が変わった。就学が督促・強化されたことや、女子に対する教育観が変わってきたこと、そしてまた、日清戦争後に産業化が起こってきたことなど、さまざまな要因によって、女子の就学は急速に増え、明治30(1897)年で50.8%だったその就学率は36(1903)年には90%に達する急激な上昇を見せた。
このように女子教育が広まるにつれ、女子向けの中等教育の必要性も出てきた。高等女学校をはじめ実業学校、実業補習学校、師範学校、各種学校など、多様な女子の中等教育機関が全国に設立されるようになり、各種学校の裁縫女学校も私立を主に多く輩出することになった。
裁縫女学校は、明治10年代から東京では渡辺辰五郎が設立した東京裁縫女学校や共立女子職業女学校などが草分け的な存在となって全国に広がり、明治30(1897)年ごろには115校、裁縫を教育内容の中心とした技芸や家政の学校をあわせると150校ほどがあった。この女子各種学校は、明治30年代に約2.3倍という急激な伸びを見せ、明治40(1907)年ごろには校名に「裁縫」や「技芸」「実用」等の名を付けた学校は全国で370校ほどに上った。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略