『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 創めの地ここに #5 (第59話)
公開日 2012/07/11
結婚は入学、就職とともに、人生における大きなエポックである。特に女性にあっては、その伴侶によって、ときに人生を決する一大事ともなる。
だいは明治40(1907)年、結婚する。夫の清水三蔵は海軍士官だった。教員として一時勤務した滋賀県・石部実業補習女学校時代に知り合った親友の世話によるものだった。日露戦争直後の当時、海軍士官は憧れの的であり、願ってもない良縁だった。
だいは、海軍将校の奥様としての華やかな生活を夢に描いた。だが、そうした生活は長くは続かなかった。三蔵が突然、自ら海軍を退官したからである。明治43(1910)年のことだった。
海軍をやめた士官の就職先は、田舎のことでもあり、なかなか見つからなかった。夫の受けるわずかな年金と恩給だけでは、母と子を抱えた生活の維持は難しく、だいは一家の将来の生活設計について思いをめぐらすことになった。
その思案のあげく、打開策として思い至ったのは、上京して夫の職を探すことだった。
―いよいよの場合は、下宿屋をして4人の生活を支えよう。
そう心に決めて、母に相談した。
だが、母やつは上京に難色を示した。
「私の生きているうちは郷里にいてもらいたい」
そして思い切った提案をした。
「桜井村は不便だが、安城へ出れば色々都合がよいだろうから、いっそのこと、この家を移してみたら…」
やつは、時代の流れを的確に見ていた。
その頃の安城は勢いに乗っていた。
明治18(1885)年には明治用水が完成して地域の農業基盤が整うとともに、明治24(1891)年には東海道線が開通して安城駅が設置され、駅を中心とする道路網も整備されて交通インフラも整ってきていた。そうした“地域発展”の成果が着々とあらわれて、明治39(1906)年には町制がしかれ、人口1万5千の安城町が誕生していた。
だいは明治40(1907)年、結婚する。夫の清水三蔵は海軍士官だった。教員として一時勤務した滋賀県・石部実業補習女学校時代に知り合った親友の世話によるものだった。日露戦争直後の当時、海軍士官は憧れの的であり、願ってもない良縁だった。
だいは、海軍将校の奥様としての華やかな生活を夢に描いた。だが、そうした生活は長くは続かなかった。三蔵が突然、自ら海軍を退官したからである。明治43(1910)年のことだった。
海軍をやめた士官の就職先は、田舎のことでもあり、なかなか見つからなかった。夫の受けるわずかな年金と恩給だけでは、母と子を抱えた生活の維持は難しく、だいは一家の将来の生活設計について思いをめぐらすことになった。
その思案のあげく、打開策として思い至ったのは、上京して夫の職を探すことだった。
―いよいよの場合は、下宿屋をして4人の生活を支えよう。
そう心に決めて、母に相談した。
だが、母やつは上京に難色を示した。
「私の生きているうちは郷里にいてもらいたい」
そして思い切った提案をした。
「桜井村は不便だが、安城へ出れば色々都合がよいだろうから、いっそのこと、この家を移してみたら…」
やつは、時代の流れを的確に見ていた。
その頃の安城は勢いに乗っていた。
明治18(1885)年には明治用水が完成して地域の農業基盤が整うとともに、明治24(1891)年には東海道線が開通して安城駅が設置され、駅を中心とする道路網も整備されて交通インフラも整ってきていた。そうした“地域発展”の成果が着々とあらわれて、明治39(1906)年には町制がしかれ、人口1万5千の安城町が誕生していた。
(つづく)
※ 文中敬称略
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