『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 創めの地ここに #4 (第58話)
公開日 2012/07/10
お針仕事で家計を助けるうち、夜学塾では、修身、国語、算術、地理、歴史と、高等科程度の学力を学ぶことになり、だいの勉学熱も高まっていった。だが、それもおよそ7年、家計を助けるため明治29(1896)年に塾を辞めて針仕事に専念することになった。
そうした中、16歳になっただいは、確実な生計として小学校の教師を志望した。
しかし、小学校は3年足らず、夜学塾には7年通ったが正規の学校のように組織的な教育を受けていない。そのため、師範学校に入りたくても受験資格がない。やむなく裁縫を教える教員を志望して、裁縫専科教員の試験を受けた。だが、失敗した。3年続けて挑戦したが不合格だった。小学校中退、夜学塾通いの学業レベルで、基礎学力も乏しく教育課程にも通じていない身には適わない難関だった。
この現実に、だいは一心発起した。この道で本格的に技術・知識を習得するため、明治35(1902)年4月、東京裁縫女学校(現学校法人渡辺学園・東京家政大学の前身)に入学した。学力、資力に不十分な地方の子女が単身上京して学ぼうというのは冒険でもあった。だいはひたすら母に懇願して許しを受け、母が懇意にしている2人から月々の学資を融通してもらうことにし、学びに就いた。
基礎学力を補うため、昼は裁縫女学校、夜は教員養成所で学び、これまでのハンディキャップの克服に努めた。だが、やがて郷里からは送金不能の知らせが届く。小さい時から母とともに苦難に耐え抜くことには慣れていただいは、この状況にも耐えた。生活は自活のため極度の倹約を図り、電灯もないカンテラ生活、食事は国元の母から送られてくる米と味噌と梅干だけ。朝晩は味噌を溶かして飲み、昼は梅干を唯一の副食にして済ませた。学資を生み出すためあらん限りのアルバイトもした。朝早くは新聞配達、新聞の立ち売り、牛乳配達、納豆売り…。荷車ひき、車夫など男まがいの肉体労働もいとわなかった。当時、青雲の志を抱いて上京する“苦学生”も多かったが、そのほとんどは男子であり、だいのような女子苦学生は稀有(けう)だった。
だが、そうした“刻苦精励”のおかげで、学業を成し遂げ、郷里で裁縫塾を営む道を拓くまでに至ったのだった。
そうした中、16歳になっただいは、確実な生計として小学校の教師を志望した。
しかし、小学校は3年足らず、夜学塾には7年通ったが正規の学校のように組織的な教育を受けていない。そのため、師範学校に入りたくても受験資格がない。やむなく裁縫を教える教員を志望して、裁縫専科教員の試験を受けた。だが、失敗した。3年続けて挑戦したが不合格だった。小学校中退、夜学塾通いの学業レベルで、基礎学力も乏しく教育課程にも通じていない身には適わない難関だった。
この現実に、だいは一心発起した。この道で本格的に技術・知識を習得するため、明治35(1902)年4月、東京裁縫女学校(現学校法人渡辺学園・東京家政大学の前身)に入学した。学力、資力に不十分な地方の子女が単身上京して学ぼうというのは冒険でもあった。だいはひたすら母に懇願して許しを受け、母が懇意にしている2人から月々の学資を融通してもらうことにし、学びに就いた。
基礎学力を補うため、昼は裁縫女学校、夜は教員養成所で学び、これまでのハンディキャップの克服に努めた。だが、やがて郷里からは送金不能の知らせが届く。小さい時から母とともに苦難に耐え抜くことには慣れていただいは、この状況にも耐えた。生活は自活のため極度の倹約を図り、電灯もないカンテラ生活、食事は国元の母から送られてくる米と味噌と梅干だけ。朝晩は味噌を溶かして飲み、昼は梅干を唯一の副食にして済ませた。学資を生み出すためあらん限りのアルバイトもした。朝早くは新聞配達、新聞の立ち売り、牛乳配達、納豆売り…。荷車ひき、車夫など男まがいの肉体労働もいとわなかった。当時、青雲の志を抱いて上京する“苦学生”も多かったが、そのほとんどは男子であり、だいのような女子苦学生は稀有(けう)だった。
だが、そうした“刻苦精励”のおかげで、学業を成し遂げ、郷里で裁縫塾を営む道を拓くまでに至ったのだった。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略