『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 創めの地ここに #3 (第57話)
公開日 2012/07/09
明治15(1882)年10月20日生まれのだいは、学齢に達するのは22(1889)年4月だった。だが、その半年前の21(1888)年9月に桜井尋常小学学校へ入学した。
その動機には訳があった。
その年の4月、母子は善光寺参りをした。鉄道も通じていない当時のこと、道中は徒歩だった。だが、その帰途、山道で迷いそうになった。二筋の分かれ道に古びた道しるべがあった。夕闇迫る中、石に刻まれた文字を指先でこすって読んだ。そのおかげで、夜の山道を行き迷うことなく、伝え聞く山犬(狼)に襲われこともなく済んだ。母は無学だったが、古着売買の商いの必要上ひらがなの読み書きは身につけていた。そのため、「右 かきのみち」と刻まれた文字を読んで、正しく柿野の宿へ向かうことができた。さもなければ、行き暮れた夜の山道で生死にかかわることになったかも知れない。
この体験が、母にいたく感じさせることになったらしい。
「だいを小学校に入れるのだ」
家に帰ると、母はすぐ小学校に出かけた。道しるべの文字を読むことで救われた。この体験から、識字の大切さを感じた母は、いかにしてもわが子に学を身につけさせようと決意したのだった。
だが、特別入学してまでの小学校も3年の学習で終わった。
かなの読み書きには事欠かなくなったからという母の意向だった。当時は「女児を入学させる家庭はお寺様か学校の先生かお医者様ぐらい」と言いはやされる時代であった。そんな中に母子家庭の子女が通学するのは奇異ですらあった。母にはそうした風潮に周囲への遠慮があったのかも知れない。代わって夜学塾へ通うように勧め、だいは塾の勉強と並行して暮らしを助けるためのお針仕事を習い始めた。
その動機には訳があった。
その年の4月、母子は善光寺参りをした。鉄道も通じていない当時のこと、道中は徒歩だった。だが、その帰途、山道で迷いそうになった。二筋の分かれ道に古びた道しるべがあった。夕闇迫る中、石に刻まれた文字を指先でこすって読んだ。そのおかげで、夜の山道を行き迷うことなく、伝え聞く山犬(狼)に襲われこともなく済んだ。母は無学だったが、古着売買の商いの必要上ひらがなの読み書きは身につけていた。そのため、「右 かきのみち」と刻まれた文字を読んで、正しく柿野の宿へ向かうことができた。さもなければ、行き暮れた夜の山道で生死にかかわることになったかも知れない。
この体験が、母にいたく感じさせることになったらしい。
「だいを小学校に入れるのだ」
家に帰ると、母はすぐ小学校に出かけた。道しるべの文字を読むことで救われた。この体験から、識字の大切さを感じた母は、いかにしてもわが子に学を身につけさせようと決意したのだった。
だが、特別入学してまでの小学校も3年の学習で終わった。
かなの読み書きには事欠かなくなったからという母の意向だった。当時は「女児を入学させる家庭はお寺様か学校の先生かお医者様ぐらい」と言いはやされる時代であった。そんな中に母子家庭の子女が通学するのは奇異ですらあった。母にはそうした風潮に周囲への遠慮があったのかも知れない。代わって夜学塾へ通うように勧め、だいは塾の勉強と並行して暮らしを助けるためのお針仕事を習い始めた。
(つづく)
※ 文中敬称略
※ 文中敬称略