学校法人安城学園
『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 創めの地ここに #2 (第56話)
公開日 2012/07/07
東京裁縫女学校(現東京家政大学)教員認可証(明治39年) “長丁場”は日付が変わる頃まで続いた。だが、零時を過ぎるあたりでやっと事が開けた。
 玄関先で何度目か話し合っているとき、床に就いていたそこの娘が起き出してきて父親を口説いて了承させてくれた。その娘は、たまたまだいの学校に在学しており、聞きかねて首尾を図ってくれたのだった。
 これで、もう一方も折れて納得。無事請印を願うことを得た。
 我が家のある安城へは4キロ以上もある。その夜道をたどって帰宅したのはまさに丑(うし)三つ時、午前3時を過ぎていた。
 深々(しんしん)と更け切った夜の冷気は寒々と身に迫った。しかし、胸中にともし火がともっていた。

―これで、早く校舎を建て、少なくとも50名以上を受け入れられるように…。

 学校のこれからの運営を夢見る希望が湧き上がっていた。と同時に、自分が安城に学びの場を設けるようになったこれまでの由縁(ゆえん)にも何か不思議さを感じていた…。

* * * * *

 だいは、明治35(1902)年、東京裁縫女学校(現渡辺学園・東京家政大学)へ入学・履修して、同校の教員辞令を受けて正式の教員になるとともに文部大臣から教員認可を取得。母校の教生になったが、明治39(1906)年に、滋賀県の石部実業補習女学校に、裁縫科教員として赴任した。24歳での自立であった。
 この履歴を見ると、人生の表通りを足どりも順調に歩いたようにも推量される。
 しかし、そうした自立までの道のりの曲折は並みではなかった。
 だいは、幼い頃から家庭的な境遇には恵まれていなかった。
 家業が没落し、父なし子、母一人子一人の家庭環境のもとで、生活の苦しさに耐えた。そんな中、だいは学びに励んだ。
(つづく)
※ 文中敬称略
 
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