女性の自立と女性が学ぶことの大切さを提唱し、今に受け継がれる大きな足跡を残された寺部だい先生。100年以上の歴史をもつ学校法人安城学園は、明治45年にだい先生が安城裁縫女学校を創立したことに端を発します。だい先生が、人として、女性として、安城学園の創立者として、どのように生き、どのように教育に携わってきたのか、その生き様を回想します。
学問の目覚め
明治15年(1882年)、愛知県碧海郡桜井村(現安城市桜井町)に生まれました。
わずか5歳になったばかりの時、2ヶ月かけて母親と二人で善光寺参りをします。帰り道、道標に刻まれた文字を母親はやっとの思いで読み、道に迷わず家路に着きました。この貴重な体験から学問の大切さを身をもって知った母親は、まだ就学年齢に達していなかっただい先生を学校に通わせました。
6歳から13歳まで長谷部先生の漢学塾に通います。苦しい家庭環境の中、子守りをして家計を助けるかたわら勉学に励み、学ぶ歓びを知りました。
教師を目指して
初心を貫いて教員への道を志し、19歳の時に東京裁縫女学校(現東京家政大学)に入学しました。さらに夜には教員養成所に通いましたが、わずかな仕送りでは足りず、学費と生活費を自分で稼がねばならなりませんでした。ある時は男装して人力車の車夫をするなど、想像を絶する苦学生活を送りました。
「私におそいかかって来る苦難の道は、いつまでつづくのか分らないが、小さい時から、母とともにこれに堪え抜くことに慣れてきた。これからも、どんな困苦にも押し倒されることなく、常に感謝の心をもって、切り開いてゆきたいと思い立った自分の道は、必ず貫徹したいから、国へは帰らない。」
しかし、強固な意志で信念を貫き、同郷の知人に助けられ、学び続けました。明治38年(1905年)、東京裁縫女学校を卒業し、ついに教員免許を取得しました。同じ年、滋賀県にある石部実業補習女学校へ赴任。教員としての第一歩を歩みました。
安城学園の誕生
明治40年(1907年)には学校を退職し、帝国海軍の軍人、清水三蔵と結婚しました。海軍将校の妻としての華やかな生活を送るはずでしたが、突然三蔵が海軍を退官したため、二人で故郷の桜井村へ帰りました。
明治44年(1911年)、桜井村から安城町(現安城市朝日町)へ生家を移築し、近所の娘さんに裁縫の指導を始めました。小学校の恩師のすすめで、女子に必要な家事・裁縫を主体として一般教養学科の一部を加えた女学校の開設を決意しました。
明治45年(1912年)、設立が認可され安城裁縫女学校を開設しました。だい先生29歳の時です。校舎を増築するのため、生まれたばかりの次男を乳母車に乗せて金策に走り回りました。
小学校の裁縫専科教員の養成のため、長女を背負い夜々在校生に裁縫教授法と裁縫理論を講義しました。裁縫専科の合格率も7割に上がり、大正6年(1917年)、校名を安城女子職業学校に変えて、女子の職業教育に力を注ぎました。
大正7年(1918年)、安城町は無料の補習女学校を新設したため、本学園は経営難に陥ります。しかしこれを乗り越えるため、一段上の甲種中等程度実業学校への昇格を決意。そこで校舎、講堂兼用務室を建築しました。師範科の入学生も急増し、学校経営は年とともに隆盛の一途をたどるようになりました。
大正13年(1924年)9月、『主婦の友』に寺部だいの半生が紹介。苦難の人生を雄々しく乗り越えて成長し、苦労の末、安城女子職業学校を築きあげるまでが掲載されました。この記事は特に若い女性とその親に大きな反響を呼び、次の年からは全国各地から入学生が集まりました。
無限の可能性に挑戦して
専門学校設立の準備をするも、中央政府には、地方の一農業地に、農業と家事を結びつけた専門を学ぶ女子教育の必要性がなかなか理解されず、約5年の年月を経て、昭和5年(1930年)にようやく安城女子専門学校が認可されて開設しました。
結婚し6人の子どもを育てる一方、新しい時代を見据えて、どんな逆境でも乗り越えてみせた不屈の精神が、学園を拡充し発展させて学校経営を成功に導きました。
終戦後には夫の急逝、教職追放による謹慎生活と幾多の苦難が降りかかりました。しかし、これらを乗り越え、そして新しい教育制度の改革を受け、安城女子専門学校を安城学園女子短期大学(現愛知学泉短期大学)に、安城女子職業学校を安城学園女子高等学校(現安城学園高等学校)として発足させました。そして次第に女子教育の総合学園として広く認められるようになりました。
「人は誰でも無限の可能性を持っている。一人ひとりの潜在能力を可能性の限界まで開発することが教育です。」